吉田蔵澤(1722年~1802年)は松山藩士で、南画家として高名である。
名を良香、通称を久大夫、号を蔵沢、他に豫章人・翠蘭亭・酔桃館・白雪など別号も多い。
好学の士であって、『康煕字典(こうぎじてん)』を購入して愛用するほど熱心であった。
家禄は250石で、彼に関する逸話は『却睡草まざまぐさ』・『垂憲録拾遺』等に取り上げられている。
彼は剛毅果断かつ積極性に富み、松山藩松平7代藩主定功の時、抜擢され代官となった。
彼は職務に精励し、また民衆との接触につとめ、彼らの生活状況を尋ね、民情に通じたので、優れた藩吏としてその名をしられるに至った。
彼の言葉によると、藩吏は民衆の犠牲にならなければならないと主張し、不正を取り締まったので、姦悪な吏員は姿を消したという。
彼は南画家として活躍し、特に墨竹画においては、その技術は神技に入ると激称された。
享和2年(1802年)に81歳で逝去し、大法寺に葬られた。近年、蔵澤は池大雅、与謝蕪村と並び賞されるようになった。
蔵澤の墨竹は松山の宝といわれ、昔から珍重されてきた。「竹の蔵澤」と言われる程である。
正岡子規も蔵澤の墨竹をこよなく愛し、根岸庵の床に常掛とし、「蔵澤の竹も久しや庵の秋」などの句を残している。