日親上人は久遠成院と呼び、応永14年(1407年)に千葉県山武市で生まれ、14歳の時に市川市の中山法華経寺の智見院日暹上人について得度されました。
19歳で西海松尾山総導師に任ぜられて九州熊本に掛錫し、翌年 再び中山に帰り、苦修練行の末、応永34年(1427年)京都に至り、一条戻り橋において大きな傘を持ち、傍らの石に腰掛け辻説法が開始されました。
永享11年(1439年)室町幕府の将軍、足利義教に対し正しい教えの法華経を信ずるように、身命をかけた直訴を行いましたが聞き入れられず、立正治国論を著し、再度直訴しようとした翌年に幕府に捕縛されました。
法華経を捨てるようにと様々な拷問をされながらも、その信仰を飜しませんでした。最も残酷な責めとして、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭にかぶせるという拷問を科せられましたが、日親上人はお題目を唱え続けました。
お題目を唱えることをやめない日親上人に、ついに幕府は舌を切ることを命じましたが、獄吏が憐れみ 舌の先を薄く切るに止めました。以後、日親上人の言葉は明瞭を欠き、子供のようにたどたどしくなったといいます。
出獄の後、不自由の身で諸国を巡錫し、その強折の弘通はよく謗法対治の功績を果たし、その堅忍不抜の信仰は、永く末代の我らを啓蒙し道心を鼓舞せられました。
晩年、京都本法寺を再建し、長享2年(1488年)9月17日、聖寿82歳で遷化せられました。
大法寺は京都本法寺の末寺に当たり、本法寺二十三世日近上人花押、造立施主に本阿弥久右衛門の日親上人座像をお祀りしています。
大祭は上人のご命日である9月17日。ご開帳は毎月17日。